本日の授業
今日は何処へ行くのかなーと思いきや、次回の授業に向けての事前学習でした。
『輪違屋』という、嶋原に現存する唯一の置屋にいる太夫さん(日本に4,5人しか居ない)の一人である、司太夫さんが大学の教室で講義をしにいらして下さりました。
自分の復習もかねて太夫さん、舞妓さん、芸妓さんについて紹介していこうかな(自分の言葉で書いているからわかりづらいと思われる)。
芸妓・舞妓
元々は水茶屋のお茶汲み娘さん(今で云う喫茶店のウェイトレス)。少しでもお客さんが増えるようにともてなしを工夫していった結果、今の舞妓・芸妓さんとなった。
- 位は無い
- 江戸時代の町娘の姿。
- 歌舞音曲(舞・三味線・囃子など)・茶道
年齢制限は?
舞妓…15〜20歳前後(が多いが、基本的にいつまでやっても構わないらしい)
太夫・芸妓…年齢制限無し
はい、まぁこんな感じで。けっこう最近まで『花魁』と『太夫』の違いは、地域での呼び名が違うだけって思っていたのですが、全く異なるんですよね。おはずかしや…。
あと『京都の嶋原』と聞くと年配の方でも「あそこは遊郭、女郎の町」と思っている方が多いそうですが、本来はそうではなく、上で説明したような太夫さんや芸妓さんやらをたくさん抱えているいわばプロダクションとそのスーパーレディたちの仕事場である大宴会場の集合体だったそうです。嶋原が『女郎の町』と思われるようになったのは幕末の大火事でたくさんの置屋・揚屋が消失したのが原因なんだとか。揚屋は大宴会場なのだから余程の財力がなければ再生は難しい。簡単に建てることが出来る女郎小屋(遊郭)ばかりが残ってしまった。
さらに追いうちをかけるように明治政府が出来る。維新志士は主に祇園の御茶屋でみを匿って貰っていたので、新政府立ち上げでそのお礼と言わんばかりに祇園などの花街を保護。壬生寺(新撰組の屯所だった寺)付近にあった嶋原はさらに隔絶された存在となる。
文化衰退…そして現在、唯一太夫を置いている置屋は輪違屋1件のみになりましたとさ。
他にもいっぱい裏話やら色々聞けて、ホント貴重な時間だったなぁと思いました。
次回輪違屋さんを訪れる時にはデジカメを是非ともGETしたいところだ。。。